橘曙覧(たちばなのあけみ) とは
「たのしみは~時(とき)」の形式で五十二首の連作短歌『独楽吟(どくらくぎん)』を詠んだ橘曙覧(たちばなのあけみ)は、幕末の歌人・国学者です。
1812/文化九年越前国(福井県)に、文房具と薬を商う商家の長男として生まれました。二歳で母と死別、十五歳で父を失い、叔父の後見を得て育ったのです。二十一歳のとき、直子と結婚しました。
家業は継いだものの商売が肌に合わず、二十八歳で家督を異母弟に譲り、隠遁生活に入ります。
本居宣長の弟子で飛騨高山に住む田中大秀に入門、国学を学び短歌を作り続けました。
生活は、門弟からの援助や寺子屋の月謝などでまかなっています。
学識及び歌人としてその名が高まり、松平春嶽(越前藩主)に出仕を求められたこともありました。
慶応四年八月二十八日、永眠。享年五十七。
『独楽吟』は橘曙覧の亡くなる四年前に出来ています。
坂本龍馬の暗殺は、彼が世を去る前年。
「明治」への改元は、彼の死去後十日目。
幕末の動乱の世に、橘曙覧は「静かに」も歌を詠み、暮らしを「たのしみ」ました。
そういえば、アイザック・ウオルトンの『釣魚大全』は、“Study to be quiet.”「静かなることを学べ」の一行で終わっています。
人は「静か」に在ることが大切、洋の東西を問わない訓えなのでしょう。
橘曙覧の長男の今滋は、父が残した歌を歌集にまとめました。『橘曙覧遺稿 志濃夫廼舎(しのぶのや)歌集』です。
彼の名が文学史に残ったのは、明治になって正岡子規が『墨汁一滴』でこの歌集を絶賛したからです。御存知の通り、子規は短歌・俳句の革新運動を起こし、今の短歌・俳句の源流になった人物ですよね。
また、1994年(平成六年)天皇・皇后両陛下のご訪米の際、クリントン大統領は歓迎のスピーチに、『独楽吟』の中の一首を引用しました。

「たのしみは 朝おきいでて昨日まで 無かりし花の咲ける見る時」 です。
これにより、橘曙覧の名と『独楽吟』「たのしみは~時(とき)」の歌が、日本人一般に知られるようになります。それまでは、知る人ぞ知る存在でした。
彼の短歌は、幕末から平成の今に至るまで親しまれています。
これからも、この世に日本語が無くならない限り、未来永劫にわたり愛唱されるでしょう。
歌童は彼から学びました。
事も無き普通の生活の中に、日々「楽しみ」を見つけながら「静かに」暮らしていくことの喜びを…。
1812/文化九年越前国(福井県)に、文房具と薬を商う商家の長男として生まれました。二歳で母と死別、十五歳で父を失い、叔父の後見を得て育ったのです。二十一歳のとき、直子と結婚しました。
家業は継いだものの商売が肌に合わず、二十八歳で家督を異母弟に譲り、隠遁生活に入ります。
本居宣長の弟子で飛騨高山に住む田中大秀に入門、国学を学び短歌を作り続けました。
生活は、門弟からの援助や寺子屋の月謝などでまかなっています。
学識及び歌人としてその名が高まり、松平春嶽(越前藩主)に出仕を求められたこともありました。
慶応四年八月二十八日、永眠。享年五十七。
『独楽吟』は橘曙覧の亡くなる四年前に出来ています。

坂本龍馬の暗殺は、彼が世を去る前年。
「明治」への改元は、彼の死去後十日目。
幕末の動乱の世に、橘曙覧は「静かに」も歌を詠み、暮らしを「たのしみ」ました。
そういえば、アイザック・ウオルトンの『釣魚大全』は、“Study to be quiet.”「静かなることを学べ」の一行で終わっています。
人は「静か」に在ることが大切、洋の東西を問わない訓えなのでしょう。
橘曙覧の長男の今滋は、父が残した歌を歌集にまとめました。『橘曙覧遺稿 志濃夫廼舎(しのぶのや)歌集』です。

また、1994年(平成六年)天皇・皇后両陛下のご訪米の際、クリントン大統領は歓迎のスピーチに、『独楽吟』の中の一首を引用しました。

「たのしみは 朝おきいでて昨日まで 無かりし花の咲ける見る時」 です。
これにより、橘曙覧の名と『独楽吟』「たのしみは~時(とき)」の歌が、日本人一般に知られるようになります。それまでは、知る人ぞ知る存在でした。
彼の短歌は、幕末から平成の今に至るまで親しまれています。
これからも、この世に日本語が無くならない限り、未来永劫にわたり愛唱されるでしょう。
歌童は彼から学びました。
事も無き普通の生活の中に、日々「楽しみ」を見つけながら「静かに」暮らしていくことの喜びを…。